クリスチャン・ディオールとは2014/07/30更新
- 読み:くりすちゃん・でぃおーる
- カテゴリ: ファッション・アート・文化 > クリスチャン・ディオール
クリスチャン・ディオール Christian Dior
「もちろん、ファッションは、つかのまのエゴイスティックな道楽だ。しかし、わたしたちが生きる時代ほど陰鬱なときには、ぜいたくを少しずつでも防衛しなくてはならないのだ」
クリスチャン・ディオールは「ニュールック」を生み出したクチュリエ(パリのオートクチュール組合に加盟する高級服飾店のデザイナー)。そのデザインはファッション界に衝撃派を送り続けた。
生い立ち
1905年1月21日にノルマンディのグランビルで生まれたクリスチャン・ディオールは、イギリス海峡を見わたせる濃い松林に囲まれた家で育った。肥料工場の経営で成功したディオール家は、裕福なブルジョアで、複数の召使いを雇っていた。幼いころのクリスチャンは人見知りで、「植物や花壇」のなかで遊んでいるときか、ジュール・ベルヌの小説『海底二万里』のノーチラス号のデザインを想像しているときが一番幸せだった。
1947年、ニュールック登場
1947年2月12日、パリはいつもどおりの朝を向かえた。だが、オスマン様式の高層アパルトマンが立ち並ぶセーヌ川右岸のエレガントな並木道、モンテーニュ通りでは騒ぎが起こっていた。着飾った群集が30 番地にあらわれ、新しくオープンしたメゾン・クリスチャン・ディオールのグレーの日よけのもとに殺到したからだ。
ぜいたくに飢えていた女性たちにとって、ディオールのコロール(花の)ラインは天からの贈り物だった。モデルたちは、床から35 センチくらいの丈のフルスカートをはいていた。ウェストはコルセットで締めつけられ、ヒップにはパッドが入っていた。丸く張りだした胸は、なだらかに下がるパッドなしの肩のラインとコントラストをなし、戦後のパリにはびこっていた角ばったファッションを真っ向から否定した。
それまでファッションを支配していた旧式の美学は一掃された。それはまさに、建築としてのファッションだった。ドレスがモデルたちに形を与えるのであり、その逆はなかった。
広がる花びらからインスピレーションを得た「コロール」では、生地が滝のように流れていた。層を大胆に形成しながら流れ落ちるディオールのスカートは、政府の緊縮政策への反抗でもあった。ディオールが服に使った膨大な量のシルク、ウール、サテンは、祝祭であると同時に、ヨーロッパ全土に広がっていた石炭不足や食糧不足に対して上層階級から宣言された激しいアンチテーゼでもあったのだ。「わたしは反動的な性分だ。配給手帳や衣料用配給券について心配しなければならない貧困に襲われ、極度の節約を強いられる時代から、わたしたちは登場した。わたしの創作物がそれに反対する形をとるのは、ごく自然なことだった」とディオールは記している。
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